「今日はね、人間の世界では七夕っていう日なの」
少し前まで人間だったと言うなぐさは、星の綺麗な夜にそんなことを言った。
星の海が一面に広がる空と、それをまるで鏡のようにそっくりと映す海は、もう境界が分からなかった。窓からのぞいた星空が余りに綺麗だったので、皆が寝静まったギルドからこっそりと抜け出した。少し先の岬の崖のからは、それが一望できる。
潮騒の音に包まれて見る星空は今宵も全く隈なく美しい。みぎわは、夕焼け時に光る海が一番好きだが、星空も好きだ。それも、なぐさと見るのならそれだけで格別に美しいと思える。一人でよりも二人で見るほうが、分かち合えている分だけより一層美しいという気持ちが膨らむのだ。
なぐさは記憶をなくしているけれど、案外と人間だった頃の変わった風習やらは覚えていた。暦の話、人間達の伝説。名前以外自分のことを何も覚えていないのに不思議だが、その話はどれもみぎわの好奇心を絶妙に擽る。
なぐさは口下手だけれど、一生懸命その一つ一つを教えてくれた。
今宵は、七が並ぶ日の夜の、星の恋物語。主役は無数の小さな星の河を跨いだ、二つの強く輝く星。あれは、恋人同士なのだという。
恋に落ち、まあ言ってしまえば恋に現をぬかしてしまったために別れ別れにされてしまった恋人達の話。その二人は、一年でたったの一夜、七夕の宵だけ逢うことを許される。
二人はその夜のために、長い長い一年を一生懸命に過ごすのだ。
その夜が、今日なのだという。
「会えるのは、一年に一回だけなの。天の川を渡れるのは、今日、だけ」
「一日だけ?」
「そう、一日だけ」
どうりでいつにも増して星が綺麗なのだと、みぎわは思った。
天の川を挟んで、見えない恋人想って、想い続けて――ようやく今夜叶ったのだ。今宵の星の輝きは、きっと二人を祝福してこんなにも強い光を放っている。
「なんかかわいそうだな。一年に一回しか会えないなんてさ」
話の終わりにみぎわがポツリとそう呟くと、なぐさはそうね、と小さく笑った。赤い瞳は、その強い色に反していつも穏やかな光を湛えている。その瞳が、淡く細められた。
「・・・でも、わたしは少し羨ましいな、とも、ちょっとだけ、思った」
「なんで?」
みぎわは驚いたように瞳を瞬かせた。
「だって、一年に一回、二人は絶対に会えるから。一度会えば一度別れてしまうけれど、これから先、十年先、百年先、千年、万年――ずっとずっと未来の長い時間、ううん、永遠に同じ時を刻めるんだもの」
遠くの星に微笑みかけるように、なぐさは天を仰いだ。
なぐさがこういう笑みを浮かべる時、みぎわは何故だか心臓がきゅっ、と小さく一回縮むような感じがする。理由はみぎわ自身も知らない。
きっと、なぐさは人間だったから、自分とは考え方も存在そのもののつくりも、違うのだろう。彼女に何があってポケモンになって、どこをどうやってここに辿り着いたか、みぎわは何も知らない。
わからないから。だからだろうか?
そこにいるのに、すぐ手が届く隣に居るのに、消えていなくなってしまいそうだなんて。
「・・・みぎわ?」
左手でそっと包んだなぐさの左手は、みぎわの手よりも少し冷たかった。その温度の差が、そっと握り返してくる柔らかい手の感触が、ちゃんとなぐさがここにいるのだということを教えてくれているのだと感じる。
「ねえ、なぐさ。次の七夕に、またここで星を見よう。二人で」
みぎわは、そういってなぐさに笑いかけた。なぐさは、大きな目いっぱいに星のような光を宿らせて、頷いた。
指きりをした。この前なぐさに教えてもらったやつで、指切った、そう二人して声を合わせた瞬間に二人の手が離れる。
――叶わないかも。
もしかしたら、言い出したみぎわ自身心のどこかでそう思っていたのかも知れない。
だから約束をした。
きっと大丈夫だと、自分に言い聞かせたかったのだ。
「あれが織姫で、そっちが彦星・・・だったよな?」
空いっぱいに散らばった無数の星々を挟むように、一際輝く二つの星をみぎわは指差した。首を縦に大きく振って、なぐさは頷くのがわかる。
他のよりも一等明るい二つの光。ちゃんと覚えていたことに、安堵の溜息を一つ落とす。
雲一つない紫。今宵も端の方はきらきらと照り返す海と溶け合っていて、まるで降ってきそうなほどだ。
七夕――星の大河に離ればなれになった恋人が一年にたった一夜だけ会える日。
果たされなかった約束を埋め合わせるように、この岬に二人で並んだ。二人の今の棲家である崖の下は、この岬に梯子で繋がっているから、見える星空も、もしかしたらそれほどの違いはないのかもしれない。しかし、ここでなければならない気がした。
前の七夕の夜――約束した日から見て次の七夕の夜――二人はここにいなかった。
いられる筈がなかった。なぐさは未来に纏わるあの戦いの後消えてしまって、みぎわも、一人この街に戻ってきたとて、とても忙しくて星を眺めるなんてできなかった。
いや、本当は努めて忙しくしていたのだ。なぐさとの約束が決して果たされないものであることを思い出さないように。
「そうやって、何千年って、繰り返していくの。たった一年で一度のために、生きて」
白い光を慈しむように目を細めたなぐさが、再びあの切なくも、救いの残された星の物語を語った。今になって、その柔らかな響きで紡がれる物語が心を締め付ける。
別離がそれほどまでにつらいものだと、あの頃はまだ知らなかった。漠然とした不安はあったけれど、温情ともいえる奇跡の末、再び巡り合えた今となっては引き離された二つの星の気持ちが痛いほどにわかってしまって。
なぐさはすっと目を細め、天を仰いでいた。その穏やかな笑みに不安を覚える事は、今はもうない。むしろあの時と逆で、その笑顔になぐさが確かにここにいるのだという安堵を覚える。
そもそも未来の人間だったなぐさが、ポケモンとしてみぎわに出逢って。
旅をして、いろいろな場所を巡って、未来まで飛んで、その末に世界なんか救っちゃって。
あれから、随分と長い時間が経った気がする。それすら、これから同じく紡いでいく二人の時に比べればほんの短いものなのかも知れないけれど。
どんなちっぽけな確率だろう。
出逢ったのは紛れもなく、なぐさと、みぎわなのだ。数多の命の中から出会い、別れ、そして再び共にここで星を見ている。
「なぁ、なぐさ」
君は織姫じゃなくって、ましておいらは彦星なんかじゃないけれどさ。
みぎわがそう前置きすると、なぐさは大きな目をしばたかせてみぎわを見た。その穏やかな色の目の中に、星のような輝きを湛えながら。
「また君に会えて良かった。じゃなきゃきっと、星がこんなに綺麗だなんて、二度と思えなかった」
なぐさは、微笑むとこつん、とみぎわの肩に頭を乗せた。わたしも――呟くようななぐさの声が、耳の辺りで柔らかく響く。少しだけ擽ったい幸福感が、全身を満たす。
きっと、天の上の星々もまた、この僥倖を喜び、愛を囁いているのだろう。
今宵がいつにも増して星が綺麗なのは、二つの星のため。
世界がこんなにも美しいと思えるのは、ここに二つの影が並んでいるため。
「次の七夕も、その次も、ここで星を見よう。約束だ」
「うん」
指切りはしなかった。
きっと叶うとわかっていたから、もう、必要ないのだ。
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